かんざえもん

文章を書いている間の脳みそのドライブ感を楽しみたいブログ

商品を売る側の苦悩の話をしてしまうわけだが

 

 

 

某日。

 

タケノコを販売してきた。

 

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難しいと思ったことは、価格を設定することである。

英語で言えば、プライシングというやつである。

いくらにすればいいのか問題である。

 

 

価格設定の難しさ:自然物である

 

商品がアナログなものである

 

何円にするかを決定するときに、タケノコたちは自然物であるという問題が立ちはだかる。

 

京都の白子(しらこ)のタケノコと言われる

綺麗な黄色の皮をしたタケノコは、

かなり柔らかく、アクも少なくて一級品である。

 

白子のタケノコは、

タケノコを根から切断するときも、

「え、今の力で切れたの?」と訝(いぶか)るくらいに、

無抵抗に切断できてしまう。

 

 

タケノコに日光が当たってしまうと、

タケノコは固くなるし、皮は黒くなる。

それは、成長して竹になるためだと思う。

タケノコを食すには、固くなるのはあまりよろしくない。

 

で、地面から顔を出す前の貴重なタケノコ、

白子

はやはり希少価値があるので、高い。

 

高い価格をつけなくてはならないのだろうな、と思う。

 

しかし。

 

白子とは呼びがたい黒っぽいタケノコを仮に黒子と呼ぶことにする。

 

竹藪からは白子も黒子も出る。

そして、白子と黒子の中間の存在も出てくる。

 グレー子が出てくる。

 

どこからが白子でどこからが黒子なのか。

 

白子と、黒子寄りの白子に

同じ価格をつけてもいいのか?

 

 

ややけちんぼな人には、見抜かれてしまう。

 

「どうしてこちらとこちらは大きさ同じくらいなのに、値段が違うの?」

「ああ、白子ねぇ、でも言われたらわかるくらいだわ」

 

うむ。

もっともですね。

 

 

 

自然物はアナログで、連続的な変化を見せているので、

どこを価格の境目にすればいいのか、わからない。

 

白子でも形の悪いものは、安くしないといけないのかもしれないし、

掘るのを失敗して、傷つけてしまったタケノコもあるし、

 

そうなってくると、タケノコ一つ一つに値段を細かくつけていかなくてはならない。

 

 

京都中央卸売市場では、

タケノコは「競り」(せり=オークション)にかけられるらしい。

築地市場みたいなもんだろうか。

いいマグロなら価格が吊り上がっていく、、、みたいなものだ。

 

そういう風に、

価格が個体ごとにリアルタイムで、動的に変更される場所の方が、

ナマモノの価格設定には向いているのかもしれない。

 

人間だって、オーディションや面接で一人ひとり選ばれるわけだし。

 

 

ただ、販売なのだから、競りなんてできない。

もっと、値段を細かく設定すればいい、というだけの話かもしれない。

 

白子寄りの白子

黒子寄りの白子

白子寄りの黒子

黒子寄りの黒子、、という4つの価格を決めたらよかったか。

 

しかし、大きさも連続的に変化するし、

大きさ、色の2軸で値段決定をするとすると、

場合の数が多すぎて、

大変なんだろうな。

 

やれやれ。

 

 

次からどうしようか。

 

 

 

次なる売り方:一盛りX円という売り方

 

たまに、地元だと、タケノコ一盛りX円という風に売られている。

これは平均値を活用した良い方法だと思う。

 

中心極限定理みたいなものがあり、それを適用すれば、

平均値は一定の値に収束するみたいな話があるので、

 

943円のタケノコ、

1104円のタケノコ、

1045円のタケノコを

合わせて3000円で売る

というような方法だ。

 

端数を削るいい作戦だ。

 

しかしタケノコがわりと大きかったため、三つも買う人間はいないため、これは難しかった。ちいさいタケノコならそれでも良かったんだと思うが。

 

しかし3つで一盛りにしているタケノコの一つを売ってくださいというお客さんもいて、戸惑うこともあった。

 

 

 

次なる売り方②:重さで売る

100gでX円と決めて、重さで売る。

 

が、

大きい1kgのタケノコ1本と、

小さい300gのタケノコ3本をどちらも同じ値段で売ってもいいのか問題がある。

 

普通に大きいタケノコの方がおいしいというのが、一般的な事実であるし、

3本集めたところで、大きな1本に対抗できるとは思われない。

 

重さで決めるということは、100gは100gという考え方で、

細くて長い100gの白子タケノコも

太くて短い100gの白子タケノコも同じ値段になってしまう。

 

太くて短いタケノコの方が、皮を剥いた後の可食範囲が大きいと思われるのだが。

 

 

結局のところ、

自然物の販売は、

均等や定規的でない、デジタル(とびとびの値)ではなくアナログ(連続的)であることに由来する値段設定の難しさがある。

 

とりあえず、

値段とはお客さんとこちら側の双方の合意(納得)によって

決定するものだから、

だいたいの価格設定基準を伝達して

コミュニケートして、

納得の値段で買ってもらえばいいのだろう、と思う。

 

 

価格設定の難しさ:売りたいが、高くしたい

 

たくさん売りたいと思っていたので、安くしよう、という考えだった。

相場よりもかなり安い値段で売ってしまった。

しかし、これは失敗だったかもしれない。

 

タケノコが多くの人に購入されることは、そもそもない模様だ。

 

タケノコは嗜好品で、嫌いな人には0円でも売れない

 

タケノコは嗜好食品で、興味のない人には売れない。

そしてタケノコという謎の食物を調理できる力のある人間もそんなにいない。

 

興味があり、かつ、調理できる力のある人は、基本的には

40代以上の女性である。

 

主婦歴あるいは家事歴があり、

食事のレパートリーに悩んでおり、

旬の作物を家族に食べさせたいと願っている家庭の女性が

ターゲットなわけである。

 

 

男性はほとんど購入しなかった。

老紳士に営業かけたが

「タケノコ、好きなんだけどね、、独り身なんで」

という独り身グダを食らった。

 

若い女性も買わない。

「タケノコおいしいけどね、、下処理が面倒なのよね」

という手間かかるグダを食らった。

 

ということは、そもそも

「たくさん売りたい」という希望が不適だった。

 

というか、そもそも

「タケノコをたくさん掘ってきた」

のが間違いだった。

(たくさん掘ってきてしまったんですよ、、なんか地面の下深くの方から出てくるタケノコが多くて、掘るの難しいな、、と思いながら、堀りの技術を高めようと練習がてら掘っていたら、いつの間にかたくさんほってしまっていて、、)

 

反省。

 

タケノコは嗜好品。

多くの人に売れるわけではない。

 

知っている人は知っている。

基本的には高級食材であることを。

だから、高い価格でも買うということ。

 

長岡京産のタケノコは、

京都軟化式栽培法で、

竹藪を畑とみなして手間暇かけて栽培していることを

知っている人は知っている。

 

他のタケノコはそのへんの竹藪に自生しているもので、

アクが強くて、しょぼっちいことを知っている人は知っている。

 

だからもっと高い価格にしても良かった。

 

そもそもの価格帯の設定が失敗していた模様。

もう少し高くても、買う人は買っていただろう。

 

買わない人は、いくら安くしたところで買わない。

下手に出ても、意味がない。

 

 

 

それにしても、買う人は買う。

 

ある人にとっては一円の価値もないものが、

ある人にとっては1000円以上の価値がある。

 

営業、あるいは販売は、

そのような人の多様さ、価値の多様さに触れ合う機会なのであった。

 

 

自分の給料を自分で決定することでもあり、こそばゆい

 

 

タケノコの価格設定は、自分の収入に直結することになる。

 

自分の仕事の価値を自分で決定する、という

なかなかの重労働である。

 

バイトとか、会社員にしても

決められた時給や給料で働くわけで、

自分の仕事の価値を自分で決定する機会はほぼない。

 

 

しかも僕は基本的に謙虚で、

かましくなりたくないことを願っている人間である確率が高確率の人間なので、

自分の仕事に高い価値をつけることを遠慮してしまう。

 

どぶ猫根性である。(そんな根性は聞いたことが無い)

 

実質的に、自分の1時間にはどのくらいの価値があるのだろう。

自分の時間の価値なんて誰が決めてくれるわけでもないから、

自分で決めなくてはならないのだろう。

 

きちんと権利は主張しないと!

ボランティアじゃないんだから、お金は貰わないと!

 

 

 

費用や時間を換算して、価格を設定できるのか問題

 

タケノコを育てるのには、膨大な時間と費用(もそれなりに)かかる。

 

特に時間と、筋力がかかる。

 

たとえば、時給換算して、タケノコの個数あるいは重量で割ったら

一体、どれくらいの値段が妥当なんだろうな。

 

わからない。

 

そもそも農業というのは自然が相手なのであって、

社会のモノサシに適合するものではないのであって、

というか、社会が自然を正確に測定する機械など持っていないことが

不確実性原理で示されているのであって、

 

きっかりすっかり決めるとか無理な話なのである。

価格が上下するのも、価値が上下するのも、

そりゃ当然なのである。

 

他人にはタケノコは高く売りつけるが、

知人になると安くなり、

友人になるとただになるという謎の価格の上下も甚(はなは)だしい。

 

現実というのは、数学的に何もかもクリスプ(ファジーの逆)に

決まっているわけではないのであった。

 

 

どれくらいで売るのが妥当だったんだろうか。

答えのない問いである。

 

 

答えのない問いに、答えを与えていくことが人が生きていくということなのかもしれなかった。

 

 

そうではないのかもしれなかった。

 

 

~~~かもしれなかった

という可能性過去のような言い回しを使うのは

村上春樹の影響かもしれなかった。

 

 

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色々な方々にお世話になりました。

 

 

どうもありがとうございました。