かんざえもん

文章を書いている間の脳みそのドライブ感を楽しみたいブログ

物事の解像度を上げることと、社会的文脈によるショートカット

 

 

 

 

 

僕の言い分は間違っていない

まだ完成していないだけなんだ

 

或るカリスマが

カリスマ「僕はいろいろな物事の解像度を上げたいんです」

と言っていた。

 

その言葉がずっと頭の中にしっくりした感じを伴って、居続けている。

 

タケノコ堀りとその作業を引き延ばして考えるところによると、

社会的文脈を外れてみる、

物事の解像度を上げるられるんじゃないか

と思った。

 

なぜか。

 

タケノコっていう植物に対する解像度を上げようと思ったら、

料理屋さんで、タケノコ料理を注文して、

タケノコを食すよりも、

 

スーパーでタケノコを買って、

自分でタケノコの皮を剥いて、

「いや、タケノコ、皮ばっかりやん!図体でかいのに、食べられるところ少しやん!詐欺やん!」

と憤慨しつつ、

タケノコを湯がいて、調理して

食べた方が解像度は上がる。

 

さらに言うと、

竹藪に行って、

タケノコを見つけて、掘って、

汚らしい紫色の根のポツポツを眺めたり、

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パイレーツオブカリビアンデイヴィ・ジョーンズ

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のようなウジャウジャな根っこ

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を眺めた方が、

タケノコの解像度は上がる。

 

 

 

自分の手を汚すということ

 

 

自分でタケノコを掘っていると、

明らかに、

タケノコという一つの生命を殺している

ということが実感される。

 

タケノコを掘るために、

根からタケノコを切り離すとき、

グサッとタケノコを刺すと、

生身のものを切った時の

「生の感触」がするし、

 

掘るのを失敗したら、

薄くだが、

命を粗末にした感触が来る。

 

タケノコを整形しているときは、

死骸を切り刻んでいる気がするときもある。 

 

 

この場合は、

「植物」だから、

なんとなく、

殺害の匂いは薄いし、

罪悪感も少ないし、

イヤーな感じもあまり受けないのだが、

 

僕らはこれを「植物」ではなく、

「動物」つまり

豚とか、牛とか、鶏でも

タケノコにすることと同じことをやっているのだなぁ

と思う。

 

 

タケノコの場合と同じように、

豚さんも、

刺されて、

解体されて、

整形されて、

スーパーに並んでいるわけなんだよな。

 

 

自分の手の代わりに社会にやらせる

 

ここで、

社会的文脈、つまり、

小売、卸売り、流通、製造、生産、、、などの

いろんな人が動いている社会システムの中で、

人はいろいろなものを見ないようにして生きていることに気づく。

 

タケノコの採取現場を、会社員の人が見ることはまずないし、

タケノコがどう生えているのか知らない大学生とか普通にいるし、

(え?タケノコって成長したら竹になるんですか?と言ってる人いたな)

社会的文脈、社会システムで、

そういうのはショートカットされた状態で

タケノコは我々の口に届く。

 

それは、

タケノコだけではなく、

他の野菜や、

衣料や、

お肉とかもそうである。

 

 

 社会的文脈、社会システムに

何かしらをそぎ取られて、

解像度が下がった状態で

我々の下にブツは届く。

 

 

社会的文脈を通すと、

物事の解像度は下がってしまう

 

そういうことである。

 

 

 

分業スタイルは、

生活を効率よく生きるのに適しているんだろうが、

何かを失っていることは確実だ。

 

 

もう少し、話を短くできたような気がする。。。。