かんざえもん

文章を書いている間の脳みそのドライブ感を楽しみたいブログ

そりゃ誰だってゴッホ展に行きたくなる時ぐらい世界平和を目指していればあると思いますが

 

某日

 

兵庫県立美術館で催されているゴッホ展に行ってきた。

「ゴッホ展」の画像検索結果

 

ゴッホ展は2回目。以前は京都市立美術館に行った。)

 

根が真面目な僕は、ゴッホ展に臨んで、いろいろと調べたりもした。

えらい。

 

フィンセント・ファン・ゴッホ

 

「ゴッホ」の画像検索結果

という人物を簡潔に言うと、

 

①絵画の才能に恵まれた人格

②きtがい

③手紙

の人です。

 

①について

①は、絵を見ているとわかる。約10年くらいの画業で絵がものすごくうまくなっている。

 

あと、絵画への情熱が強い。研究熱心。

 

積極的にいろんな画家とシェアハウスを繰り返して、

絵の勉強をするし、たくさん模写する。

日本の浮世絵を模写したり、印象派と呼ばれる画家の絵を模写したりしている。

 

弟のテオに、

「僕は次、こういう絵をこういう画材でこういう色を組み合わせて描こうと思う」

など、話しており、

精密な構想を練って

着実に描画していることがわかっている。

 

 

②について

おもしろいな、と思ったエピソードがありまして。

 

ゴッホは、幼き頃に、

自分の生まれる1年前頃の日付が彫られていて、かつ

自分の名前が書かれている「墓石」

見つけたらしいです。

 

享年

 自分が生まれる1年前

名前

 自分の名前

 

 

の墓石。

 

 

それは、ゴッホの生まれる前に生まれたゴッホ(フィーセント)の死んだ兄貴のお墓だったのですが、

ゴッホはそれを見て、

「自分は1年前に死んでいるのに、今生きているのか?」

という屈折した思いを抱くことになったようです。

 

けっこうな衝撃ですね。いやはや。

 

そんな感じで、

自分の耳を切って女に送ったり、

てんかんや、鬱や、境界性パーソナリティ障害になったり、

自分の胸をピストルで打ったり(痛っ)

とにかく色々と大変なことになります。

 

 「狂うこと」と戦っていた、

たぐいまれなる絵画の才能をもつ画家、、です。

 

加えて、、

 

③について

 

小林秀雄という人が、

ゴッホの手紙を読まないことには、ゴッホの絵はわからない」

「あれは美しい画ではないんです」

 

ということを言っている。

 


小林秀雄「ゴッホの人生」

 

弟テオにあてた手紙を膨大に書いていて

そこには、

親密な家族にしか打ち明けない魂の独白とやらが書かれている

とのことで、

いわゆる不特定多数に読まれる小説や文学とは違う、

より個人的な内容が書かれているとのことなのです。

 

 

手紙は、いわば、今のLINEのトーク画面みたいなものです。

そこには、公共用の言葉とは違うリアリティ溢れる言葉が並べられていることは想像に難くない。

兄弟愛のあふれる兄弟同士ですしね。

 

 

美術館の展示品の横にも手紙の一説が挿入されていたりしました。

 

 

 

 「こういうのが描きたい」の「こういうの」を言語化することは難しい

絵とか、小説とか

筆者には

「こういうのが描きたい」

というのがある。

 

「この、こういう感じ好き」

みたいな。

燃えポイントというか。

 

美術品には、とりあえず誰かの

「こういうのが描きたい」

「こういうのが俺(あるいは誰か)はいいと思う」

というものがとりあえず、並んでいる。

 

 

そのディザイアー(desire)を僕自身がわかってやる必要は

本当はないわけで。

 

だから、

美術なんて別に

わからなくてもいいわけで。

 

でも、わざわざ美術館に来て、

美術品を眺めていると、この人の

「こういうのが描きたい」

はどういうのなんだろう?と

興味を向けることになる。

 

 

美術品を見るときは主に

「あなたは何がしたかったのですか?」

というスタンスでいる。

 

心を読もうとする。

価値観を探ろうとする。

 

 

写実的でない絵を見て、

「ちゃんと描けよ」

と思ったら、

 

自分の中に

「写実的に書くことがよいことだ、ちゃんとしていることだ、いい!」

という価値観が埋まっていることに気づく。

 

でも、その写実的こそ正義みたいなもの(写実主義)は、

思い込みであり、

別に写実的に書かなければいけないというルールはとりあえずない。

 

写実的でないものを描く画家は、

写実的でないものを描くのがいいと思ったわけで、

ただそれだけの話だ。

 

 

ゴッホはいわゆる印象派(ポスト印象派)であるが、

印象派の絵は、なんかまあ、ぼんやりとしている。

嫌いな人が見たら、

メガネをかけていないときの映像みたいで嫌だ

と不満を垂らすかもしれない。

 

 

好みの問題というか

宗教の問題というか

信仰の問題というか

価値観の違いというか

感性の違いというか

見解の相違というか

美術品を見ていると

至るところに、

そういう意見の対立がある。

 

 

 

あるいは、

「え、なんで歯ブラシを水に濡らしてから歯磨き粉をつけるの?」

という

「なんでそういうことをするのかわからない」

みたいなことも多々起きる。

 

というか、どこぞのヨーロッパのおっさん達が描く絵なんてものは、

だいたい

「え、なんでご飯をおかわりするときに、2割くらいご飯を残した状態でお茶碗渡すの…?理解できない」

みたいなことばかりだ。

 

「え、なんで自画像とか描くの」

「え、なんでこんな見づらい画が評価されてるの」

「え、なんでこの男性の絵、頭ゆがんでんの」

「え、なんで、こんな絵をこんなでっかいサイズで、

高い絵の具ふんだんに使って描くの」

 

なんか、そういうことばかりだ。

 

 

でも、

そういう自分にわからない価値観を持つ人への想像力が

多分、教養だし、

わかろうと、

同じ目線を持とうと、

することが

仲良くすることへの第一歩だし、

世界平和への小さな一歩だと思うので、

美術館にも足を運んで行ってもいいと思うんですよ。

 

 

いいこと言ったな。

 

 

なんか芸術って良いな。

呼吸が楽やわ。